近代建築のダイナミズムを体感する/vol.12 「小松市公会堂」解体前視察レポート

建築にまつわる様々なトピックやインタビューをご紹介している「建築コラム」。今回は建築物の視察レポートです。訪れたのは、石川県小松市中心部にある「小松市公会堂」。浦建築研究所の初代所長の浦清が設計を手がけたもので、公園内の再整備計画と共に、近く解体されることが決定しました。今は貴重な近代建築の遺産の一つとして、今回社員研修の一貫として訪れることに。小松市公会堂のあゆみを視察の様子とあわせてご紹介します。

 

小松市公会堂の外観

小松市の草創期に建てられた「公会堂」

 小松市公会堂が開館したのは1959年(昭和34年)。明治初年に廃城となった小松城があった芦城公園内に佇み、小松市役所もほど近いまさに“小松の中心地”です。千人以上を収容できる大ホールのほか、地上33メートルの展望塔があり、最上9階に及ぶガラス張りのモダンな建築、そしてそこからの眺めは当時話題を呼びました(展望塔は平成28年に解体)。
着工した年は大雪に見舞われ工事が難航したこと、そしてその状況下でも設計変更などで対応し期日通りに竣工させたことなど、完成までの苦労や喜びが小松市公会堂の記念誌からうかがい知ることができます。

小松市公会堂の完成を祝して制作された記念誌
展望塔があった当初の姿
施設の様子

「公会堂」とは、公衆が公益的な集会を行うのに適した施設のことを指し、日本では大正デモクラシーの時期に演説会や講演会などを天気にかかわらずに開催できる施設を求められるようになったのがその始まり。この声に応えるかたちで、戦後も多くの公会堂が地方の各地に建設されていきました。

文化的発展の中心になる殿堂として

小松市公会堂ができた翌年が小松市制20周年にあたり、2町6か村の合併により1940年に誕生した「小松市」は、まだまだ草創期といえる時期にありました。

「吾が小松市は農村の中心にある若い都市でありますが、年々発展の一途をたどり、繊維工業の他、重工業も伸び、大飛行場も整備されつつあり、観光地も併合して大躍進を続けることは誠に慶賀に堪えません。
 これに伴い文化的にも先進都市に劣らない程度に発展させたいと念じて居りましたが、今回『その中心施設でる公会堂を…』という市民の強い要望に応え、一億数千万円を投じてこの殿堂を新築したものであります」

記念誌に寄せられた初の公選小松市長・和田傳四郎氏の言葉からも、当時の小松市の勢いが感じられ、また街の発展と合わせた文化振興への強い願いが、小松市公会堂に込められていたことが伝わってきます。

初の公選小松市長・和田傳四郎氏の銅像。小松市の草創期にあってその尽力を表彰され名誉市民に。

小松市公会堂は子どもたちや音楽団体の発表の場として長年親しまれたほか、選挙の集会にも活用されてきたりと、小松の民主主義を象徴する建物でもありました。お城から市民の創作発表の場へと変容を遂げたことも象徴的です

千人以上を収容できた大ホール

「大都市の直輸入のものではなく」

小松市公会堂の設計を担当したのは、浦建築研究所・初代所長の浦清。「公会堂は、その土地の市民の利用する建物である以上、あくまでも郷土の資料に基づき、地方色を折り込み且つ時と共に変わりゆく公民館活動に或る程度の見通しをつけそれにふさわしい建物とすべきで、外国ないしは大都市の直輸入のものでは、どうかと思われます」と記念誌に言葉を寄せています。ただ流行りのものを取り入れるのではなく、地方色ある建築物を作っていこうという気概が感じられます。

「設計士のことば」として記念誌に、「浦建築研究所」所長として浦清が寄せた文章

今に通底する「工芸建築」への試み

小松市公会堂の東西どちらの壁面にも取り付けられている石板。こちらは小松市出身の洋画家・宮本三郎氏がデザインしたレリーフが用いられており、公会堂のシンボルにもなっています。

「美術や工芸を、付帯的なものではなく“建築の要素”として取り入れる」。まさに現在浦建築研究所として取り組んでいる「工芸建築」にも通づるような試みが、初代の頃から行われていたともいえます。

小松市出身の洋画家・宮本三郎が描いた壁画。こちらは市役所側
「小松の産業」という作品タイトル。それぞれのモチーフに注目してみたい
公会堂の展望スペースからは「宮本三郎美術館」(左の建物)が見える

壊されゆく「近代建築」を前にして

「戦後建てられた近代建築の多くは、耐震問題などから全国的に壊されていっています。ですから県内でもこれだけの規模のものはなかなか残っていないんですよ」と語るのは、今回の視察を企画した浦建築研究所代表の浦淳。

浦建築研究所代表・浦淳

「当時の公共建築は『木造』から『コンクリート造』に建て替えていこうとする時期で、ちょうど戦後から高度経済成長に差し掛かる分水嶺というか、いわば“鉄筋コンクリート建築の草創期”ともいえる時代でした。急激な変化の最中にありながら、この頃の日本の建築には“力”が漲っていました。

近代建築というと丹下健三といった巨匠らが思い浮かぶでしょうが、地方でも「建築家」と呼ばれる職業がようやく認識されてきた頃で、この『地方でやり出した』ということにも意味があると思っています」

ストラクチャーに「力」がある

「初代・浦清の建築もその流れを組んでいて、小松市公会堂も高度成長の時代性を表した近代建築です。ストラクチャーに力があって、空間構成がダイナミック。
もちろん現代とは事情が違いますし、今は建築にも細やかな規制や配慮が求められるので、なかなかこういった大胆な設計はできません。そういった意味でも、若い人たちに壊される前に一度実物を体感してもらえたらなと」

  

新しい技術やツールを積極的に取り入れている浦建築研究所。しかし同時に、過去に学ぶことの重要性にも自覚的です。若き設計者たちは建築のディテールまで細やかに確認しながら、猛暑日にも関わらず冷房の効かない館内をじっくりと時間をかけて巡っていました。
その建築への熱量は、かつての近代建築の草創期にも引けを取っていないのではないでしょうか。

館内をじっくり視察する浦建築研究所スタッフ

(取材:2024年8月)