濃密な対話から生まれた、誰かの「きっかけ」になる場所
/vol.9 建築士 山﨑洸希
浦建築研究所をより身近に。こちらの「建築コラム」では、建築事例だけでは見えないスタッフの素顔や、建築業界のトピックなどもご紹介していきます。第9回は、2024年3月16日の北陸新幹線・敦賀ー金沢間開通を期に、改めて注目を集める小松駅駅高架下観光交流施設「Komatsu 九(コマツナイン)」(事例紹介記事はこちら)を担当した建築士の山﨑洸希さんのインタビューです。
実はこのプロジェクトをきっかけに、山﨑さんは小松市への移住を決断します。「僕にとっても、大きなきっかけを与えてくれたプロジェクトでした」と振り返る、開業までの白熱したストーリーをうかがってきました。
入社3年目の大抜擢
──いきなり失礼ながら、山﨑さん、かなりお若いですよね…?浦建築研究所では若いうちから大きなプロジェクトを任せてもらえるんですか?
山﨑:今29歳です。「Komatsu九」の案件を担当させていただいた時は入社3年目だったので、27歳だったでしょうか。そんな若手にプロジェクトを全任するってなかなかないことだと思うので、改めて社長はすごいなと(笑)。もちろんいきなり任せてもらったわけではなく、それまでに挑戦してきたコンペティションなどの成果を見ていただけていたのかなとは思います。
とはいえ、高架下の公共建築という案件の種類も規模感も、初めてのことばかりだったので、まずは観光施設や駅舎など県外の優れた事例を見に行くことから始めました。
ひと・モノ・情報が交差し合う拠点
──では「Komatsu九」で担当されたエリアの概要からうかがえますか?
山﨑:はい。まず「Komatsu九」とは「待ち合わせ、鉢合わせ、巡り合わせ」をテーマに掲げた、ひと・モノ・情報の交流拠点です。観光案内やカフェ、ショップ、ワークラウンジなどを併設し、9つのコンセプトで地域の魅力を発信する施設です。
大きく分けて4つのエリアで構成されていて、弊社で担当したのが「GALLERY&EVENT AREA」です。その他に「SOUVENIOR&CAFE AREA」「FOOD AREA」「CO-WORKING AREA」があり、それらは東西南北に抜ける十字の通路で区切られていて、かつそれぞれのエリアの中にも通り道をつくり、「回遊」と「滞留」を生み出しています。いたるところに「寄り道したくなるしかけ」を点在させて、様々な「きっかけが生まれる場」になることを目的としています。
4つのエリアは、それぞれ設計者やデザイナーが異なるので、エリアごとに特徴があるのもおもしろいのかなと。
真っさらから、多様な人々と練り上げる
──担当された「GALLERY&EVENT AREA」はどのようなテーマを持った場なのでしょうか?
山﨑:「展示・ギャラリーの機能を持ったスペース」ということ以外は白紙の状態で。真っさらなところから考え出しました。そしてそれは僕一人ではなく、今回「小松市埋蔵文化センター」「小松市 にぎわい交流部 観光文化課」「小松市都市創造部 特定プロジェクト推進室」「株式会社こまつ賑わいセンター」の四者でこのエリアの企画から運営までを担当しています。
──四者が集って企画を一からまとめていくというのは、なかなかの大仕事だったのでは。
山﨑:そうですね、企画者、運営者、表現者とそれぞれ立場も違いますし、何よりみなさんこの場への、そして小松への“想い”がすごく強いんです。この想いの強い四者で「一つの答え」に辿り着けるように話し合いをまとめていく。今回のプロジェクトで何が一番大変だったか聞かれたら、ここだと答えると思います(笑)。そして同時に、このプロセスがあったからこそ良い空間ができたと、今なら断言することができるのですが。
──建築士って、ファシリテーションの能力まで求められるんですね。
山﨑:僕も今回、建築士は「何でも屋」でなければいけないんだなと、つくづく感じました。自分の上司を見ていても、あらゆる知識を持っていて、対人術にも長けていて、カリスマ性もあって…みんな本当にすごいんです。
“若造”が信頼を得るために
──さらに、一番の若手が議論をまとめる立場にあるという。
山﨑:そうですね。みなさん僕より経験も知識も格段に多い方々なので、当初は会議の場でもなかなか発言できなくて。その分、仕事量でカバーしようと、打ち合わせには必ずBIMなどの「ビジュアル資料」を用意するようにしていました。関係者が多い案件では、捉え方や解釈にも齟齬が生じやすいので「誰が見ても一目でわかる」ようにと、常に意識していました。
──BIMモデルって、こういった関係者やステークホルダーが多い場面での合意形成にもすごく有用なんですね。
山﨑:そうですね。その場でモノを動かせたり、図面を変更することもできるので、とても便利です。逆にいえば、今回のようなケースではタイムリーに対応できないと、スピード感を持ってプロジェクトを進めていくことができません。
こうして毎回準備してきていたことで認めていただけたのか、段々とメンバーの皆さんにも心を開いていただけるようになって、「山崎君はどう思う?」と意見を求められたり。嬉しかったですね。
みんなの「大切なもの」を真ん中に据えて
山﨑:それぞれに想いの強い四者でしたが、みなさんが共通して大事にしていたもの、そして一番表現したいと思っていたものが小松市の「埋蔵文化財」でした。
今から約2300年前、弥生時代の北陸地方を代表する大規模環濠集落である「八日市地方(ようかいちじかた)遺跡」から出土したものなのですが、実はその八日市地方遺跡が存在し、実際に発掘調査が行われた場所が、まさに今「Komatsu九」がある場所なんです。小松市の山手にある「埋蔵文化財センター」でも出土品を見ることはできますが、やはり「発掘された現場で/人通りの多い街なかで展示したい」という想いが、皆の中にありました。
「本物」に包まれるキュレーション
山﨑:なので、埋蔵文化財を一つの中心として、相対的にその他のエリアを考えていくようにしました。埋蔵文化財ゾーンで大切にしたのは、「難しい展示」ではなく「誰でも親しめる展示」にするということ。
歴史的資料の展示というと重厚なイメージがあると思うのですが、そうではなく、明るく軽やかに。「若いセンスで頼むよ」とおっしゃっていただいて。そこで、集落からの出土品が地中から湧き出してきて、それらに包まれている感覚に陥るような、そんな浮遊感のあるインスタレーションにしたいと考えました。設備スタッフである宮崎さんが、僕の意図を組んで照明計画をしてくれた効果も大きいです。
──すごい物量ですよね。しかも出土品は全て本物ですか…?
山﨑:そうなんです。実はこういった人通りが多い場所では、レプリカを展示するケースが多いそうなのですが、「絶対に本物を見せたい」という僕のわがままを聞いていただいて。元旦に起こった能登半島地震の際はもうダメかと思いましたが、奇跡的に全ての作品が無事でした。それも埋蔵文化センター・学芸員の下浜貴子さんが最後まで粘って手がけてくださった、素晴らしい緊結のおかげです。
──建築の中のいちコンテンツである「展示」にまで、通常設計士が関わるものなのでしょうか?
山﨑:普通は立ち合わないと思います(笑)。でも僕自身この空間を絶対に良いものにしたかったので、呼ばれたら必ず出向いて、あーでもないこーでもないと現地で相談し合っていましたね。
滑らかに未来へとつなぐアプローチ
山﨑:そして、埋蔵文化ゾーンと通路を挟んで対局にある「観光交流ゾーン」では、「未来へ繋ぐ」をコンセプトとしています。
ここでは「モノの展示」と言うよりも「最新の情報の展示」に重点をおいています。小松市が地場のものづくりの魅力を発信するために力を入れている「GEMBA モノヅクリエキスポ」の発信をはじめ、ここでプロジェクトの存在を知って、実際の現場で体験してまた戻ってきてもらえるような、そんなハブのような場にできたらと考えました。
「未来」を表現するために、曲面のホワイトウォールを設計したのですが、図面上では綺麗に描くことができるこの曲面も、現実のものとするのは大変です。施工を担当してくださったヨシダ宣伝の諸先輩方には頭が上がりませんし、僕はインテリアの経験が少なかったので、みなさんに「教えてください!」と様々なことを聞いて回ってましたね。これはある意味、若いからこそできたことかもしれません(笑)。
市民自ら「発信」できる重要性
山﨑:そして最後に、市民も利用できるレンタルスペースを設けました。僕の中ではこの場所があることが、Komatsu九のコンセプトを体現する上でとても重要だったと感じています。
Komatsu九は先ほどお話した様に「ひと・モノ・情報の交流拠点」ですが、それは受動的に情報を受け取ったり、何かを手にいれるだけでなくて、「市民自らつくり・発信できること」、そしてそれができる「余白があること」が大事だと思いました。
僕ら設計士って、普通は建築物を建てたらそこで終わりだと思うんですけれど、今回はその後の運用レベルまで考えられたのは、自分にとって大きな経験でした。実は僕自身、今度このスペースを借りてイベントを開催する予定なんです。設計者として、実際にここを使ってみて「こんな使い方があるよ」ということを、提案していけたらと思っています。市民のみなさんにアウトプットも楽しんでもらって、地元を愛する「小松人」をもっと増やしていけたら。
地元愛に溢れた「小松人」
──もう、発言が「こっち側(小松側)」の人ですね(笑)。それにしても「小松人」という言葉があるくらい、小松の人は地元愛が強いのはどうしてなのでしょう?
山﨑:小松って伝統的に「自分でものを作れる人」が多い街なんですね。そして、山もあれば海もあるので、その素材にも事欠かない。多分、「小松」という街で完結してクオリティーの高いものを作ることだってできる。そういう矜持というか自由度というか、「自分たちで何か作っていける街」だと市民が感じていることが大きいのではないですかね。
──なるほど。それはレンタルスペースを設けた考えにも通じますね。そして山﨑さん自身、小松人になっちゃったと。
山﨑:なっちゃいましたね(笑)。それくらい、この案件が大きかったというか、この場を通して、小松の街と人が大好きになりました。工事スケジュールがかなりタイトだったので、最後は本当にギリギリだったのですが、完成した時は施主様から「お疲れ!ありがとう!」とハグしていただいたりも。今振り返ってみても、熱い日々でしたね。
急成長できた、浦建築研究所での5年間
──山﨑さんは、小松移住とあわせて浦建築研究所を“卒業”されて、この春から新しい職場で働かれるんですよね。改めて、浦建築研究所はどんな場所でしたか?
山﨑:僕って、結構“わがまま”なタイプなんです。入社1年目から「何がしたい/こういうものをつくりたい」と好きに発言していたし、生意気だったと思います。けれど、浦建築研究所は、それを受け止めてくれる人ばかりだったんです。特に僕は「新技術研究班」に所属していたので、業務が少しでも効率的になってクオリティーをあげられる技術があれば、どんどん導入していきました。VRやARやBIM…先輩の巻さんと僕で、苦労しながらもずっとやってきて。
行動さえ伴っていれば、必ずチャンスを与えてくれる。チャレンジしたい人にはすごくいい会社だと思います。僕自身、すごく成長させてもらった5年間でした。
──浦建築研究所の「班」の仕組みは本当にユニークですよね。
山﨑:「班」という可愛い語感からは逸脱したレベルのことをやっていると思います。通常の「業務」とはまた別にインプットがあるというのは、すごく大切なことだと思います。
──次のステップではどんなことをしたいですか?
山﨑:はい。施主やステークホルダーとの濃密なコミュニケーションから生まれる空間は、すごく良いものになるということを、僕はKomatsu九の案件を通して改めて学ばせていただきました。「誰のためにつくっているのか」ということが明確で、それは僕にすごく充足感を与えてくれたんです。
「より緻密で近い距離感の会話から生まれる建築」という意味で、「住宅」をやってみたいと思うようになりました。まさに「共に築く」(浦建築研究所の企業コピー)というか。あぁ、やっぱり僕が建築をやる意味は、結局ここに終着しますね。
(取材:2024年3月)